『日出処の天子』(第1巻)~(第7巻) 作:山岸凉子 ★★★★★ [コミック:全般]
なんて美しく、なんて残酷で、なんて悲愴な。。。。
読後、すぐには現実の世界に戻れないような感動に、
何度も何度もページをめくり、また読み返さずにはいられない
日出処の天子 (第1巻)~(第7巻) 山岸凉子
日出処の天子 (第2巻) 日出処の天子 (第3巻) 日出処の天子 (第4巻)
日出処の天子 (第5巻) 日出処の天子 (第6巻) 日出処の天子 (第7巻)
天皇を中心とする国家創建の理想を貫くために、
様々な権謀術数を駆使した権力闘争の中に身をおく厩戸王子(うまやどのおうじ)。
周りからは、沈着冷静、頭脳明晰、完全無欠と見られている彼だったが、
常人とは異質な能力や性質によりもたらされる深い孤独を抱え、
その心の奥底には果てしない苦悩の闇が広がっていた。
そんな厩戸王子にとり、唯一無二の存在となっていく蘇我毛人(そがのえみし)であったが。。。。
史実と伝説とが混沌とする飛鳥時代を背景に漠然と思い描いていた、厩戸王子(=聖徳太子)をはじめ蘇我毛人、推古天皇や蘇我馬子などの人物像というものが、この作品を読んだら何処かに吹き飛んでしまいました;^^
『日出処の天子』においての厩戸王子は、女性と見紛うばかりの完璧な美貌で超能力者(サイコキネシス、テレキネシス、プレコグニション、テレポートなど、不安定ながら殆どの能力を有するサイキック)。そして同性愛者であり、ともすればとんでもないエゴイストで冷血で・・・。かと思えば、愛しい者に対しては熱く情熱的で、繊細で・・・。
毛人とその妹の刀自古(とじこ)を巡る近親相姦の罪についても含めて、こうして記すと一見キワモノ的に見えてしまうのが残念です。
しかしこれらは、どれも山岸凉子が創り上げた『日出処の天子』の世界や、厩戸王子の人物像において不可欠であり、紡がれていく物語の中で、すべての因果が応報しているとの必然性を感じさせる、重要なファクターであると言えるでしょう。
これらと、煩悩や苦悩からの救いと宗教(仏教)の関わりなども合わせて、ヘビーでディープな或いは哲学的とも言える精神性をも、透明感をもった描線や細やかな表情を描き分ける画力でもって表現するこの作品は、「少女マンガの枠に収められるものではない」と感じさせます。
強く印象に残っている場面は数多くありますが・・・。特に次の三場面を挙げます。
一つは、瞑想する厩戸王子の元(意識内)に訪れる仏さまたちが、話し掛けるでも救いの手を差し伸べるでもなく、ただ列を成して眼前を通り過ぎて行くその場面。
不思議に、仏さまが静かに歩を進めるたびに、錫杖がシャランと鳴る音が聞こえてくるような、瓔珞が揺れて淡い光が煌めくのが見えるような気がして、とても好きなひとコマです。
それから、厩戸王子が妃として迎えた刀自古に対し、己の隠された性質を暴露するとともに、刀自古の苦渋の謀(はかりごと)を逆手にとって残酷な取り引きを強いる場面。
ここでの厩戸王子と刀自古のエゴのぶつかり合いや、それぞれのエゴが互いに我が身に返って、心が血を流すほどに傷つく自虐的な展開は出色です。
私は、刀自古が・・・・刀自古が哀しい。(文法的にヘンですが;)
そして何と言っても、厩戸王子と毛人の訣別のシーン。
この(かなり長めの)クライマックス・シーンでは、二人の台詞の一言一言が胸を打ち、人が人を愛するということと自己愛についてや、どれほどに渇望しても得られないという絶望感、そしてその絶望の向こうに見えてくる道筋などについて、深く考えさせられます。
とは言え、この場面で受ける様々な感動を言葉で表すのは、なかなか難しい・・・。読んだ人にだけ解る感じかも;
ともあれ、身もだえするような孤独を冷徹に見つめる一人の人間として、こんなにも魅力的に厩戸王子を表現した作者の着想の独創性に感服します。
この作品は、その内容の衝撃性からたくさんの物議をかもしました。
また、後に某・超有名漫画家によって発表された作品の主人公である厩戸王子が、山岸凉子版厩戸王子とあまりにもソックリであったため、山岸凉子ファンからの多大な怒りをかい、「盗作疑惑」の論争なども起きました。(当然です。)
私は20年以上前に『日出処の天子』と出会ったのですが、その鮮烈な厩戸王子のイメージを今に至るまで抱き続けております^^;
1983年度の、第7回講談社漫画賞少女部門受賞作品。
いまや巨匠の呼び声高い山岸凉子の代表作の一つであり、色褪せることのない傑作。
読後、すぐには現実の世界に戻れないような感動に、
何度も何度もページをめくり、また読み返さずにはいられない
日出処の天子 (第1巻)~(第7巻) 山岸凉子
日出処の天子 (第2巻) 日出処の天子 (第3巻) 日出処の天子 (第4巻)
日出処の天子 (第5巻) 日出処の天子 (第6巻) 日出処の天子 (第7巻)
天皇を中心とする国家創建の理想を貫くために、
様々な権謀術数を駆使した権力闘争の中に身をおく厩戸王子(うまやどのおうじ)。
周りからは、沈着冷静、頭脳明晰、完全無欠と見られている彼だったが、
常人とは異質な能力や性質によりもたらされる深い孤独を抱え、
その心の奥底には果てしない苦悩の闇が広がっていた。
そんな厩戸王子にとり、唯一無二の存在となっていく蘇我毛人(そがのえみし)であったが。。。。
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史実と伝説とが混沌とする飛鳥時代を背景に漠然と思い描いていた、厩戸王子(=聖徳太子)をはじめ蘇我毛人、推古天皇や蘇我馬子などの人物像というものが、この作品を読んだら何処かに吹き飛んでしまいました;^^
『日出処の天子』においての厩戸王子は、女性と見紛うばかりの完璧な美貌で超能力者(サイコキネシス、テレキネシス、プレコグニション、テレポートなど、不安定ながら殆どの能力を有するサイキック)。そして同性愛者であり、ともすればとんでもないエゴイストで冷血で・・・。かと思えば、愛しい者に対しては熱く情熱的で、繊細で・・・。
毛人とその妹の刀自古(とじこ)を巡る近親相姦の罪についても含めて、こうして記すと一見キワモノ的に見えてしまうのが残念です。
しかしこれらは、どれも山岸凉子が創り上げた『日出処の天子』の世界や、厩戸王子の人物像において不可欠であり、紡がれていく物語の中で、すべての因果が応報しているとの必然性を感じさせる、重要なファクターであると言えるでしょう。
これらと、煩悩や苦悩からの救いと宗教(仏教)の関わりなども合わせて、ヘビーでディープな或いは哲学的とも言える精神性をも、透明感をもった描線や細やかな表情を描き分ける画力でもって表現するこの作品は、「少女マンガの枠に収められるものではない」と感じさせます。
強く印象に残っている場面は数多くありますが・・・。特に次の三場面を挙げます。
一つは、瞑想する厩戸王子の元(意識内)に訪れる仏さまたちが、話し掛けるでも救いの手を差し伸べるでもなく、ただ列を成して眼前を通り過ぎて行くその場面。
不思議に、仏さまが静かに歩を進めるたびに、錫杖がシャランと鳴る音が聞こえてくるような、瓔珞が揺れて淡い光が煌めくのが見えるような気がして、とても好きなひとコマです。
それから、厩戸王子が妃として迎えた刀自古に対し、己の隠された性質を暴露するとともに、刀自古の苦渋の謀(はかりごと)を逆手にとって残酷な取り引きを強いる場面。
ここでの厩戸王子と刀自古のエゴのぶつかり合いや、それぞれのエゴが互いに我が身に返って、心が血を流すほどに傷つく自虐的な展開は出色です。
私は、刀自古が・・・・刀自古が哀しい。(文法的にヘンですが;)
そして何と言っても、厩戸王子と毛人の訣別のシーン。
この(かなり長めの)クライマックス・シーンでは、二人の台詞の一言一言が胸を打ち、人が人を愛するということと自己愛についてや、どれほどに渇望しても得られないという絶望感、そしてその絶望の向こうに見えてくる道筋などについて、深く考えさせられます。
とは言え、この場面で受ける様々な感動を言葉で表すのは、なかなか難しい・・・。読んだ人にだけ解る感じかも;
ともあれ、身もだえするような孤独を冷徹に見つめる一人の人間として、こんなにも魅力的に厩戸王子を表現した作者の着想の独創性に感服します。
この作品は、その内容の衝撃性からたくさんの物議をかもしました。
また、後に某・超有名漫画家によって発表された作品の主人公である厩戸王子が、山岸凉子版厩戸王子とあまりにもソックリであったため、山岸凉子ファンからの多大な怒りをかい、「盗作疑惑」の論争なども起きました。(当然です。)
私は20年以上前に『日出処の天子』と出会ったのですが、その鮮烈な厩戸王子のイメージを今に至るまで抱き続けております^^;
1983年度の、第7回講談社漫画賞少女部門受賞作品。
いまや巨匠の呼び声高い山岸凉子の代表作の一つであり、色褪せることのない傑作。
conian さん ご訪問ありがとうございましたm(_ _)m
by パキちゃん (2009-12-10 18:47)